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Keikou

景行天皇





大足彦忍代別天皇、活目入彦五十狹茅天皇第三子也。母皇后曰日葉洲媛命、

丹波道主王之女也。活目入彦五十狹茅天皇卅七年、立爲皇太子。時年廿一。九十九年春二月、

活目入彦五十狹茅天皇崩。


大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)は、

活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)の第三子です。

母の皇后は日葉洲媛命(ひばすひめのみこと)と言い、丹波道主王(たにはのみちぬしのみこ)の

娘です。

活目入彦五十狭茅天皇三十七年、立って皇太子になりました。

時に年は二十一。

九十九年春二月、活目入彦五十狭茅天皇が崩御されました。



元年秋七月己巳朔己卯、太子即天皇位、因以改元。是年也、太歳辛未。


元年秋七月十一日、太子は天皇位につき、よって元号を改めました。

この年は、太歳辛未です。



二年春三月丙寅朔戊辰、立播磨稻日大郎姫一云、稻日稚郎姫。郎姫、此云異羅菟内ィ皇后。

后生二男、第一曰大碓皇子、第二曰小碓尊。一書云、皇后生三男。其第三曰稚倭根子皇子。

其大碓皇子・小碓尊、一日同胞而雙生、天皇異之則誥於碓、故因號其二王曰大碓・小碓也。

是小碓尊、亦名日本童男童男、此云烏具奈、亦曰日本武尊、幼有雄略之氣、及壯容貌魁偉、

身長一丈、力能扛鼎焉。


二年春三月三日、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおほいらつめ)を立たし、

(一説では、稲日稚郎姫(いなびわかいらつめ)とあります)

(郎姫、これを異羅菟(いらつめ)といいます)

皇后としました。

皇后は二人の男を生み、第一は大碓皇子(おほうすのみこ)といい、第二は

小碓尊(をうすのみこと)といいます。

ある書にはこうあります、皇后は三人の男を生みました。

その第三は稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)といいます。

その大碓皇子・小碓尊は、一日に同じ母の胎内に双子で生まれ、天皇は

これをめずらしいと臼に叫び、故にその二王を名付けて大碓(おほうす)

小碓(をうす)と言います。

   臼に叫び・・・出産のときに妊婦が石臼を抱いたり、ご主人が臼を背負って家のまわりを

             まわったりする風習からきてるとされます

この小碓尊は、亦の名を日本童男(やまとをぐな)といい

(童男、これを烏具奈(をぐな)と言います)、

又は日本武尊(やまとたけるのみこと)と言い、幼くして雄大な計略の気があり、

および勇ましく姿かたちが立派な様子で、身長が一丈で、力が強く鼎を

かつぎあげられました。

   一丈・・・10尺と定義され、1尺は約0.303030 mなので、約3.0303 m

   鼎・・・食べ物を煮たり、祭りに用いたりする三本脚の器



三年春二月庚寅朔、卜幸于紀伊國將祭祀群~祇、而不吉、乃車駕止之。

遣屋主忍男武雄心命一云武猪心、令祭。爰屋主忍男武雄心命、詣之居于阿備柏原而祭祀~祇、

仍住九年、則娶紀直遠祖菟道彦之女影媛、生武内宿禰。


三年春二月一日、紀伊國に訪れて諸々の天地の神々を祀ることを占うと、

不吉で、そして天子が行幸の際に乗るくるまを止めました。

屋主忍男武雄心命(やぬしおしをたけをこころのみこと)を遣わせ

(ある説では武猪心(たけゐこころ)とあります)、

祭りを命じました。

ここにおいて屋主忍男武雄心命が、これを詣り阿備柏原(あびのかしはら)に住んで

天地の神々を祀り、そして住んで九年、紀直(きのあたひ)の遠い祖先の

菟道彦(うぢひこ)の娘の影媛(かげひめ)を娶り、武内宿祢(たけのうちのすくね)を生みました。



四年春二月甲寅朔甲子、天皇幸美濃。左右奏言之「茲國有佳人曰弟媛、容姿端正、

八坂入彦皇子之女也。」天皇、欲得爲妃、幸弟媛之家。弟媛、聞乘輿車駕、則隱竹林。

於是天皇、權令弟媛至而居于泳宮之泳宮、此云區玖利能彌揶、鯉魚浮池、朝夕臨視而戲遊。

時弟媛、欲見其鯉魚遊而密來臨池、天皇則留而通之。爰弟媛以爲、夫婦之道古今達則也、

然於吾而不便、則請天皇曰「妾、性不欲交接之道、今不勝皇命之威、暫納帷幕之中、

然意所不快、亦形姿穢陋、久之不堪陪於掖庭。唯有妾姉、名曰八坂入媛、容姿麗美、志亦貞潔。

宜納後宮。」


四年春二月十一日、天皇は美濃(みの)に行きました。

側近が申し上げました

 「ここの国に弟媛(おとひめ)というすばらしい人がいて、容姿が美しく整い、

八坂入彦皇子(やさかいりひこのみこ)の娘だ。」

天皇は、妃として得たく、弟媛の家を訪れました。

弟媛は、天子が輿に乗ったと聞き、則ち竹林に隠れました。

ここにおいて天皇は、弟媛が至るよう命じ泳宮(くくりのみや)に居て

(泳宮、これを區玖利能彌揶と言います)、

鯉を池に浮かべ、朝夕に臨んで視て戯れ遊びました。

時に弟媛は、その鯉の遊びを見たくて密かに来て池を臨み、天皇は

その場所にとめて交わりました。

ここにおいて弟媛が思うに、夫婦の道は昔から今まで通じるさだめで、

しかし吾においては憐れむべきことだと、すなわち天皇に請いて言いました

 「われ、男女が性交する道を欲していず、今皇命の勢いに勝てず、暫く

垂れ幕と引き幕の中に納まり、しかし思いは不快で、また容姿が賤しく、

しばらくして後宮に付き添うことが耐えられない。ただわが姉がいて、

名を八坂入媛(やさかいりひめ)と言い、容姿が美しく、志もまた貞操が固く潔白だ。

よろしく後宮に納めるのがよい。」



天皇聽之、仍喚八坂入媛爲妃。生七男六女、第一曰稚足彦天皇、第二曰五百城入彦皇子、

第三曰忍之別皇子、第四曰稚倭根子皇子、第五曰大酢別皇子、第六曰渟熨斗皇女、

第七曰渟名城皇女、第八曰五百城入姫皇女、第九曰依姫皇女、第十曰五十狹城入彦皇子、

第十一曰吉備兄彦皇子、第十二曰高城入姫皇女、第十三曰弟姫皇女。

又妃三尾氏磐城別之妹水齒郎媛、生五百野皇女。次妃五十河媛、生~櫛皇子・稻背入彦皇子、

其兄~櫛皇子、是讚岐國造之始祖也、弟稻背入彦皇子、是播磨別之始祖也。

次妃阿倍氏木事之女高田媛、生武國凝別皇子、是伊豫國御村別之始祖也。

次妃日向髮長大田根、生日向襲津彦皇子、是阿牟君之始祖也。次妃襲武媛、

生國乳別皇子與國背別皇子一云宮道別皇子・豐戸別皇子、其兄國乳別皇子、

是水沼別之始祖也、弟豐戸別皇子、是火國別之始祖也。


天皇はこれを聴き、すなわち八坂入媛を呼び寄せて妃としました。

七男六女を生み、第一は稚足彦天皇(わかたらしひこすめらみこと)といい、

第二に五百城入彦皇子(いほきいりひこのみこ)といい、

第三は忍之別皇子(おしのわけのみこ)といい、

第四は稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)といい、

第五は大酢別皇子(おほすわけのみこ)といい、第六は渟熨斗皇女(ぬのしのひめみこ)といい、

第七は渟名城皇女(ぬなきのひめみこ)といい、

第八は五百城入姫皇女(いほきいりひめのひめみこ)といい、

第九は依姫皇女(かごよりひめのひめみこ)といい、

第十は五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこ)といい、

第十一は吉備兄彦皇子(きびのえひこのみこ)といい、

第十二は高城入姫皇女(たかきいりひめのひめみこ)といい、

第十三は弟姫皇女(おとひめのひめみこ)です。

また三尾氏磐城別(みをのうじのいはきわけ)の妹の水歯郎媛(みづはのいらつめ)を妃とし、

五百野皇女を生みました。

次に五十河媛(いかはひめ)を妃として、神櫛皇子(かむくしのみこ)・

稲背入彦皇子(いなせいりひこのみこ)を生み、その兄の神櫛皇子は、

これ讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)の始祖で、弟の稲背入彦皇子は、

これ播磨別(はりまわけ)の始祖です。

次に阿倍氏木事(あべのうじのこごと)の娘の高田媛(たかたひめ)を妃とし、

武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこ)を生み、これは伊予国(いよのくに)の

御村別(みむらわけ)の始祖です。

次に日向髪長大田根(ひむかのかみながおほたね)を妃とし、

日向襲津彦皇子(ひむかのそつひこのみこ)を生み、これは阿牟君(あむのきみ)の始祖です。

次に襲武媛(そのたけひめ)を妃とし、国乳別皇子(くにちわけのみこ)と国背別皇子(くにせわけのみこ)

(ある伝えでは宮道別皇子(みやちわけのみこ)とあります)

と豊戸別皇子(とよとわけのみこ)を生み、その兄の国乳別皇子は、これ

水沼別(みぬまわけ)の始祖で、弟の豊戸別皇子は、これ火国別(ひのくにのわけ)の

始祖です。



夫天皇之男女、前後併八十子。然除日本武尊・稚足彦天皇・五百城入彦皇子外、七十餘子、

皆封國郡、各如其國。故、當今時謂諸國之別者、即其別王之苗裔焉。是月、天皇、

聞美濃國造名~骨之女、兄名兄遠子・弟名弟遠子、並有國色、則遣大碓命、

使察其婦女之容姿。時大碓命、便密通而不復命。由是、恨大碓命。冬十一月庚辰朔、

乘輿自美濃還。則更都於纏向、是謂日代宮。


それ天皇の男女は、前後併せて八十人の子です。

しかれども日本武尊(やまとたけるのみこと)・稚足彦天皇(わかたらしひこすめらみこと)・

五百城入彦皇子(いほきいりひこのみこ)を除いた外、七十余の子は、皆國郡を与えて

領主にし、各々その國に赴きました。

故に、今の時世が言う諸国に別ける者は、すなわちその別王の

遠い子孫です。

この月、天皇は、美濃国造(みののくににみやつこ)の名は神骨(かむほね)の娘、姉の名は

兄遠子(えとほこ)・妹の名は弟遠子(おととほこ)が、並んで絶世の美女であると聞き、

すなわち大碓命を遣わし、その女性の容姿をくわしく調べさせました。

時に大碓命は、すなわち密かに通じて結果を報告しませんでした。

これにより、大碓命を恨みました。

冬十一月一日、輿に乗り美濃より還りました。

すなわち纏向(まきむく)に都をあらため、これを日代宮(ひしろのみや)といいます。



十二年秋七月、熊襲反之不朝貢。八月乙未朔己酉、幸筑紫。九月甲子朔戊辰、到周芳娑麼。

時天皇南望之、詔群卿曰「於南方烟氣多起、必賊將在。」則留之、先遣多臣祖武諸木・

國前臣祖菟名手・物部君祖夏花、令察其状。


十二年秋七月、熊襲(くまそ)が逆らい朝貢しませんでした。

   朝貢・・・外国の使者などが来朝して朝廷に貢物を差し出すこと

八月十五日、筑紫に行きました。

九月五日、周芳(すはう)の娑麼(さま)に到りました。

時に天皇が南を望んで、 多くの公卿に詔でいいました

 「南方に煙が多く起こり、必ず賊がいるだろう。」

すなわち留まり、まず多臣(おほのおみ)の祖の武諸木(たけもろき)・

国前臣(くにさきのおみ)の祖の菟名手(うなて)・物部君(もののべのきみ)の祖の夏花(なつはな)を

遣わし、その状況を調べて明らかにするよう命じました。



爰有女人、曰~夏磯媛、其徒衆甚多、一國之魁帥也。聆天皇之使者至、則拔磯津山之賢木、

以上枝挂八握劒、中枝挂八咫鏡、下枝挂八尺瓊、亦素幡樹于船舳、參向而啓之曰「願無下兵。

我之屬類、必不有違者、今將歸コ矣。唯有殘賊者、一曰鼻垂、妄假名號、山谷響聚、

屯結於菟狹川上。二曰耳垂、殘賊貧婪、屡略人民、是居於御木木、此云開川上。三曰麻剥、

潛聚徒黨、居於高羽川上。四曰土折猪折、隱住於緑野川上、獨恃山川之險、以多掠人民。

是四人也、其所據並要害之地、故各領眷屬、爲一處之長也。皆曰『不從皇命。』願急撃之。

勿失。」於是、武諸木等、先誘麻剥之徒。仍賜赤衣・褌及種々奇物、兼令ヒ不服之三人。

乃率己衆而參來、悉捕誅之。天皇遂幸筑紫、到豐前國長峽縣、興行宮而居、故號其處曰京也。


ここに女の人がいて、神夏磯媛(かむなつそひめ)といい、その徒衆は甚だ多く、

ある国の魁帥でした。

   徒衆・・・馬や乗物に乗らない徒歩の家来

   魁帥・・・賊徒などのかしら

天皇の使者が行き着いたと聞き、磯津山(いそつやま)の賢木(さかき)を抜き、

上枝に八握剣(やつかのつるぎ)をかけ、中枝に八咫鏡(やたのかがみ)をかけ、下枝に

八尺瓊(やさかに)をかけ、また白旗を舳先にたてて、赴いて申し上げて言いました

 「兵を下がらせないよう願う。我の仲間は、必ず背く者ではなく、今まさに

コに従おうとする。ただ残る賊がいて、一人は鼻垂(はなたれ)といい、むやみに

仮名を名乗り、山谷に鳴りわたり集まり、菟狹の川上に集まり仲間となった。

二人目は耳垂(みみたれ)で、殘賊はきわめて欲の深く、しばしば人民を奪い取り、

これ御木(みけ)の川上に居る(木、これを開()と言います)。三人目は

麻剥(をはぎ)といい、ひそかに徒党を集め、高羽(たかは)の川上に居る。四人目は

土折猪折(つちをりゐをり)といい、緑野(みどりの)川上に隠れ住み、独りで山川の難所で

待ち、多くの人民をさらった。この四人は、その場所を足場並びに塞の地とし、

故に各々が一族の者を支配し、一処の長と為した。皆が言う

『皇の命令に従わない』すぐにこれを撃つことを願う。しくじる事ないように。」

ここにおいて、武諸木(たけもろき)等が、まず麻剥(をはぎ)の仲間を誘いました。

そして赤衣(あかごろも)・褌(はかま)及びにいろいろな珍しい品を賜り、併せて

不服の三人を呼ぶよう命じました。

そして己の仲間を率いて参り来て、悉く捕らえて滅ぼしました。

天皇は遂に筑紫に行き、豊前国(とよくにのみちのくちのくに)の長狭県(ながさあがた)に到り、

行宮(かりみや)を興して居て、故にその所を名付けて京(みやこ)といいました。



冬十月、到碩田國。其地形廣大亦麗、因名碩田也。碩田、此云於保岐陀。到速見邑、有女人、

曰速津媛、爲一處之長。其聞天皇車駕而自奉迎之諮言「茲山有大石窟、曰鼠石窟、

有二土蜘蛛、住其石窟。一曰、二曰白。又於直入縣禰疑野、有三土蜘蛛、一曰打猿、

二曰八田、三曰國摩侶。是五人、並其爲人強力、亦衆類多之、皆曰『不從皇命。』若強喚者、

興兵距焉。」天皇惡之、不得進行、即留于來田見邑、權興宮室而居之。


冬十月、碩田国(おほきたのくに)に到りました。

その地のかたちは廣大でまた美しく、よって名を碩田(おほきた)といいます。

碩田、これを於保岐陀といいます。

速見邑(はやみむら)に到り、女の人がいて、速津媛(はやつひめ)といい、ある所の

長をしていました。

それは天皇の車駕を聞き自ら迎え奉り尋ねて言いました

 「この山に大きな石窟があり、鼠の石窟といい、二人の土蜘蛛がいて、

その石窟に住んでいる。一人は青(あを)といいもう一人は白(しろ)といい、

又直入県(なほりのあがた)の祢疑野(ねぎの)に、三人の土蜘蛛がいて、一人目は

打猿(うちさる)といい、二人目は八田(やた)といい、三人目は国摩侶(くにまろ)と

いいます。この五人、並びにその天性は力が強く、亦仲間が多く、皆が

『皇の命令に従わない』といい、もし強く呼び寄せると、兵を起こして

こばむだろう。」

天皇はこれを憎み、進み行くことが出来ず、すなわち来田見邑(くたみむら)に

留まり、その場所に宮室(みやむろ)を興して居ました。



仍與群臣議之曰「今多動兵衆、以討土蜘蛛。若其畏我兵勢、將隱山野、必爲後愁。」

則採海石榴樹、作椎爲兵。因簡猛卒、授兵椎、以穿山排草、襲石室土蜘蛛而破于稻葉川上、

悉殺其黨、血流至踝。故、時人其作海石榴椎之處曰海石榴市、亦血流之處曰血田也。

復將討打猿、度禰疑山。時賊虜之矢、横自山射之、流於官軍前如雨。天皇、

更返城原而卜於水上、便勒兵、先撃八田於禰疑野而破。爰打猿謂不可勝而請服、然不聽矣、

皆自投澗谷而死之。


なお多くの臣下と話し合って言いました

 「今多くの兵士を動かし、よって土蜘蛛を討つ。もしそれが我が兵の

勢いに畏れ、将に山野に隠れるなら、必ず後の心配事になるだろう。」

そして海石榴(つばき)の樹を採り、槌を作って兵を作りました。

勇ましく強い兵卒を選び、兵に槌を授けて、そして山を掘って草を押しのけ、

石室の土蜘蛛を襲って稲葉(いなば)の川上で破り、悉くその集団を殺し、

血が流れてくるぶしに至りました。

ゆえに、時の人はそれ海石榴(つばき)を椎に作った所を海石榴市(つばきち)といい、

また血が流れた所を血田(ちだ)といいました。

またまさに打猿を討とうとして、祢疑山(ねぎのやま)を越えました。

時に賊虜の矢が、思いがけず山より射られ、官軍の前に雨のように

流れました。

天皇は、更に城原(きはら)に返り水上(みなかみ)で占い、すなわち兵を整え、

先に八田を祢疑野で撃ち破りました。

ここに打猿は勝てないと言い服従を請い、しかし聴く事は無く、

皆自ら澗谷(たにのみづ)に投げて死にました。



天皇、初將討賊、次于柏峽大野、其野有石、長六尺・廣三尺・厚一尺五寸。天皇祈之曰

「朕得滅土蜘蛛者、將蹶茲石、如柏葉而舉焉。」因蹶之、則如柏上於大虚。故、號其石曰蹈石也。

是時祷~、則志我~・直入物部~・直入中臣~三~矣。


天皇は、初めに賊を討とうとし、次に柏峡大野(かしはをのおほの)、その野に

石があり、長さ六尺・幅三尺・厚さ一尺五寸。

天皇が祈って言いました

 「朕は土蜘蛛を滅せることができ、将にこの石を蹴り、柏の葉のように

高く上げる。」

故にこれを蹴り、そして柏のように大空に上がりました。

ゆえにその石を名付けて踏石(ふみし)といいます。

この時に祈った神は志我神(しがのかみ)、直入物部神(なほりのもののべのかみ)、

直入中臣神(なほりのなかとみのかみ)の三柱の神です。



十一月、到日向國、起行宮以居之、是謂高屋宮。十二月癸巳朔丁酉、議討熊襲。於是、

天皇詔群卿曰「朕聞之、襲國有厚鹿文・鹿文者、是兩人熊襲之渠帥者也、衆類甚多。

是謂熊襲八十梟帥、其鋒不可當焉、少興師則不堪滅賊、多動兵是百姓之害。何不假鋒刃之威、

坐平其國。」時有一臣進曰「熊襲梟帥有二女、兄曰市乾鹿文乾、此云賦、弟曰市鹿文、

容既端正、心且雄武。宜示重幣以ヒ納麾下。因以伺其消息、犯不意之處、則會不血刃、

賊必自敗。」天皇詔「可也。」


十一月、日向国(ひむかのくに)に到り、行宮(かりみや)を起こしてここに居て、

これを高屋宮といいます。

十二月五日、熊襲(くまそ)を討とうと話し合いました。

ここにおいて、天皇は多くの公卿に詔で言いました

 「朕は聞く、襲国(そのくに)に厚鹿文(あつかや)・鹿文(せかや)がいて、この二人は

熊襲の頭目であり、部下が甚だ多かった。

これは熊襲の八十梟帥(やそたける)といい、そのきっさきを当てることは出来ず、

少ない兵を起こすも賊を滅することは出来ず、多くの兵を動かすと

これ百姓の害となると思う。

いかにして鉾先の威を借りずに、その国を平定し納めるのか。」

時にある臣が進んで言いました

 「熊襲の梟帥に二人の娘がいて、姉は市乾鹿文(いちふかや)といい

(乾、これを賦といいます)、

妹は市鹿文(いちかや)といい、姿は既に端正で、心はまた雄々しく強い。

宜しく重幣を示して麾下(おもと)に納めるよう指示した。

   重幣・・・心を込めた「手厚い贈り物」

   麾下・・・ 将軍じきじきの家来

よってその消息を伺い、思いがけない処を侵害し、そして血がたなに

遭わずに、賊は必ず自ら敗れる。」

天皇は詔で言いました

 「可也。」

   可也・・・十分ではないが一応の程度までいっているさまにいう、相当の水準に

         達している状態



於是、示幣欺其二女而納幕下。天皇則通市乾鹿文而陽寵、時市乾鹿文奏于天皇曰

「無愁熊襲之不服。妾有良謀、即令從一二兵於己。」而返家、以多設醇酒令飲己父、

乃醉而寐之。市乾鹿文、密斷父弦、爰從兵一人進殺熊襲梟帥。天皇、

則惡其不孝之甚而誅市乾鹿文、仍以弟市鹿文賜於火國造。


ここにおいて、贈り物を示してその二人の娘を騙して幕下(おもと)に納めました。

   幕下・・・戦争地での妃がいる場所・後宮

天皇は市乾鹿文に通いうわべを偽りかわいがり、時に市乾鹿文が天皇に

申し上げて言いました

 「熊襲が従わないことを心配しないで。妾に良い策があり、すなわち

一人二人の兵を己に従うよう命じて。」

そして家に返り、そして多くのまじり気のない酒を用意して己の父に飲ませて、

すなわち酔って眠りました。

市乾鹿文は、密かに父の弓に張る糸を切り、ここに従う兵の一人が進んで

熊襲梟帥を殺しました。

天皇は、その不孝を甚だ憎んで市乾鹿文を殺し、すなわち妹の市鹿文に

火国造(ひのくにのみやつこ)を賜りました。



十三年夏五月、悉平襲國。因以居於高屋宮已六年也、於是其國有佳人、曰御刀媛御刀、

此云彌波迦志、則召爲妃。生豐國別皇子、是日向國造之始祖也。


十三年夏五月、つぶさに襲国(そのくに)を平定しました。

それゆえ高屋宮に居ることは既に六年であり、ここにその国に

すばらしい人がいて、御刀媛(みはかしひめ)といい(御刀、これを彌波迦志(みはかし)

といいます)、そして妃として招きました。

豊国別皇子(とよくにわけのみこ)を生み、これは日向国造(ひむかのくにのみやつこ)の始祖です。



十七年春三月戊戌朔己酉、幸子湯縣、遊于丹裳小野、時東望之謂左右曰

「是國也直向於日出方。」故號其國曰日向也。是日、陟野中大石、憶京都而歌之曰、


十七年春三月十二日、子湯県(こゆのあがた)に訪れ、丹裳小野(にものをの)で遊ばれ、

時に東を望んで側近に考えて言いました

 「この国は日出づる方にまっすぐに向かう。」

故にその国を名付けて日向(ひむか)といいます。

この日、野中の大石をのぼり、京都(みやこ)を想って歌っていいました、



波辭枳豫辭 和藝幣能伽多由 區毛位多知區暮

夜摩苔波 區珥能摩倍邏摩 多々儺豆久 阿烏伽枳 夜摩許莽例屡 夜摩苔之于屡破試

異能知能 摩曾祁務比苔破 多々瀰許莽 幣愚利能夜摩能 志邏伽之餓延塢 于受珥左勢 

許能固

是謂思邦歌也。


波辞枳予辞(はしきよし) 和芸幣能伽多由(わぎへのかたゆ) 

区毛位多知区暮(くもゐたちくも) 夜摩苔波(やまとは) 

区珥能摩倍邏摩(くにのまほらま) 多々儺豆久(たたなづく) 

阿烏伽枳(あをかき) 夜摩許莽例屡(やまごもれる) 

夜摩苔之于屡破試(やまとしうるはし) 異能知能(いのちの)

摩曽祁務比苔破(まそけむひとは) 多々瀰許莽(たたみこも) 

幣愚利能夜摩能(へぐりのやまの) 志邏伽之餓延塢(しらかしがえを) 

于受珥左勢(うずにさせ) 許能固(このこ)


《愛しきよし 従吾へ家方 雲居ヰ起ち來も 倭は 國の眞區らば 畳靡就く 垣 山籠れる 倭し麗はし 命の 全そけむ人は 畳み薦も 平群山の 白橿枝を 髻華の挿せ 此の子》


愛しい 我が家の方から 雲が立ち登ってくるも 大和は 最もすぐれた国 幾重にも重かさなる

青垣のように 山が包まれ 大和は美しい 命の 生命力が見えるかのような人は 

たたみこむ 平郡の山の 白樫の枝を 髪飾りにして挿せ この子


これを思邦歌(くにしのひうた)と言います。



十八年春三月、天皇將向京、以巡狩筑紫國。始到夷守、是時、於石瀬河邊人衆聚集、

於是天皇遙望之、詔左右曰「其集者何人也、若賊乎。」乃遣兄夷守・弟夷守二人令覩。

乃弟夷守、還來而諮之曰「諸縣君泉媛、依獻大御食而其族會之。」


十八年春三月、天皇が京(みやこ)に向かおうとして、筑紫国(つくしのくに)の

地方の政治や民の生活状態を視察しました。

始めに夷守(ひなもり)に到り、この時、石瀬河辺(いはせのかはへ)に大勢の人々が

一か所に集まり、ここにおいて天皇は遠くを見渡し、側近に詔で言いました

 「その集まる者は何者だ、もしや賊か。」

すぐに兄夷守(えひなもり)・弟夷守(おとひなもり)を遣わして観るよう命じました。

すぐに弟夷守が、還り来ていいました

「諸縣君(もろかたのきみ)の泉媛(いづみひめ)が、天皇の食べる食物を献じようとして

其の族が集まっている。」



夏四月壬戌朔甲子、到熊縣。其處有熊津彦者、兄弟二人。天皇、先使微兄熊、則從使詣之。

因微弟熊、而不來、故遣兵誅之。壬申、自海路泊於葦北小嶋而進食、

時召山部阿弭古之祖小左、令進冷水。適是時、嶋中無水、不知所爲、則仰之祈于天~地祗、

忽寒泉從崖傍涌出、乃酌以獻焉。故號其嶋曰水嶋也、其泉猶今在水嶋崖也。


夏四月三日、熊県(くまあがた)に到りました。

その所に熊津彦(くまつひこ)がいて、兄弟は二人です。

天皇は、先に兄熊(えくま)を召しださせ、使いに従い詣でました。

そして弟熊(おとくま)を召しださせましたが、来ず、故に兵を遣い殺しました。

十一日、海路より葦北(あしきた)の小嶋(をじま)に泊まり食事をして、時に

山部(やまのべ)の阿弭古(あびこ)の祖の小左(をひだり)を召して、冷水をさし出すよう

命じました。

たまたまこの時、嶋の中に水はなく、どうしようもなく、そこで仰いで

天~地祗に祈り、たちまち冷たい泉が崖のほとりより湧き出て、そして

酌んで献じました。

故にその嶋を名付けて水嶋(みづしま)といい、その泉は猶も今に

水嶋の崖にあります。



五月壬辰朔、從葦北發船到火國。於是日沒也、夜冥不知著岸。遙視火光、天皇詔挾杪者曰

「直指火處。」因指火往之、即得著岸。天皇問其火光之處曰「何謂邑也。」國人對曰

「是八代縣豐村。」亦尋其火「是誰人之火也。」然不得主、茲知非人火。故名其國曰火國也。


五月一日、葦北(あしきた)より船で発ち火国(ひのくに)に到りました。

ここにおいて日没になり、暗夜で着く岸がわかりませんでした。

遥かに火の光が視え、天皇が船頭に詔で言いました

 「直ぐに火の処を指させ。」

そして日の指す方に行き、すぐに岸が現れました。

天皇がその火の光の処を問いて言いました

 「なんという邑だ。」

国の人が答えて言いました

 「ここは八代県(やしろのあがた)の豊村(とよのむら)だ。」

またその火を尋ねました

 「これは誰の火だ。」

しかし主はいなく、これ人の火ではないと知りました。

故にその国の名を火国といいます。



六月辛酉朔癸亥、自高來縣、渡玉杵名邑、時殺其處之土蜘蛛津頬焉。丙子、到阿蘇國、

其國也郊原曠遠、不見人居、天皇曰「是國有人乎。」時有二~、曰阿蘇都彦・阿蘇都媛、

忽化人以遊詣之曰「吾二人在、何無人耶。」故號其國曰阿蘇。秋七月辛卯朔甲午、

到筑紫後國御木、居於高田行宮。時有僵樹、長九百七十丈焉、百寮蹈其樹而往來。時人歌曰、


六月三日、高来県(たかくあがた)より、玉杵名邑(たまきなむら)に渡り、時に

その所の土蜘蛛の津頬(つづら)を殺しました。

十六日に、阿蘇國に到り、その国は原野がはるかに遠くまであり、人が

居るように見えず、天皇が言いました

 「この国は人がいるのか。」

時に二神がいて、阿蘇都彦(あそつひこ)、阿蘇都媛(あそつひめ)といい、忽ち人に化けて

ぶらつき言いました

 「吾ら二人がいて、なぜ無人か。」

故にその国を名付けて阿蘇といいます。

秋七月四日、筑紫後国(つくしのみちのしりのくに)の御木(みけ)に到り、高田の行宮に

居ました。

時に倒れた樹があり、長さ九百七十丈で、多くの役人がその樹を踏んで

行き来しました。

時の人が歌って言いました



阿佐志毛能 瀰概能佐烏麼志 魔幣菟耆瀰 伊和羅秀暮 瀰開能佐烏麼志


阿佐志毛能(あさしもの) 瀰概能佐烏麼志(みけのさをばし)

魔幣菟耆瀰(まへつきみ) 伊和羅秀暮(いわたらすも)

瀰開能佐烏麼志(みけのさをばし)


《朝霜の 御毛のさを橋 卿(まへつきみ) い渡らすも 御毛のさを橋》


朝霧の御木の狭小橋を高官が渡っているも 御木の狭小橋



爰天皇問之曰「是何樹也。」有一老夫曰「是樹者歴木也。嘗未僵之先、當朝日暉則隱杵嶋山、

當夕日暉亦覆阿蘇山也。」天皇曰「是樹者~木、故是國宜號御木國。」丁酉、到八女縣。

則越藤山、以南望粟岬、詔之曰「其山峯岫重疊、且美麗之甚。若~有其山乎。」

時水沼縣主大海奏言「有女~、名曰八女津媛、常居山中。」故八女國之名、由此而起也。

八月、到的邑而進食。是日、膳夫等遺盞、故時人號其忘盞處曰浮羽、今謂的者訛也。

昔筑紫俗號盞日浮羽。


ここに天皇が問いて言いました

 「これは何の樹か。」

一人の老人がいて言いました

 「この樹は歴木(くぬぎ)だ。かつて未だ倒れていない先に、朝日に輝き

杵嶋山(きしまのやま)を隠して、夕日に輝いてまた阿蘇山(あそのやま)を覆っていた。」

天皇が言いました

 「この樹は~木で、故にこの国を宜しく名付けて御木国(みけのくに)という。」

七日、八女県(やめのあがた)に到りました。

すなわち藤山(ふぢのやま)を越へ、南に粟岬(あはのさき)を望み、詔で言いました

 「その山の峰が幾重にも重なり、且つ甚だ美しい。もしや神が

その山にいるのか」

時に水沼(みむま)の県主(あがたぬし)の猿大海(さるのおほあま)が申し上げました

 「女神がいて、名を八女津媛(やめつひめ)といい、常に山の中に居ます。」

故に八女国(やめのくに)の名は、これゆえに起きました。

八月、的邑(いくはむら)に到って食を進めました。

この日、膳夫らは盃を遺し、故に時の人はその忘れられた盃の処を名付けて

浮羽(うくは)といい、今に言う的(いくは)は訛りです。

   膳夫・・・古代、宮中で食膳の調理をつかさどった人

昔筑紫のならわしで盞(うくは)と名付けて浮羽といいます。



十九年秋九月甲申朔癸卯、天皇至自日向。


十九年秋九月二十日、天皇は日向(ひむか)より至りました。



廿年春二月辛巳朔甲申、遣五百野皇女、令祭天照大~。


二十年春二月四日、五百野皇女(いほのひめみこ)を遣わし、天照大神を祭るよう

命じました。



廿五年秋七月庚辰朔壬午、遣武内宿禰、令察北陸及東方諸國之地形、且百姓之消息也。


二十五年秋七月三日、武内宿祢(たけのうちのすくね)を遣わし、北陸(くぬかのみち)及び

東方(あづま)の諸国の地形、且つ百姓の状況を調べて明らかにするよう

命じました。



廿七年春二月辛丑朔壬子、武内宿禰、自東國還之奏言「東夷之中、有日高見國、其國人男女、

並椎結文身、爲人勇悍、是總曰蝦夷。亦土地沃壤而曠之、撃可取也。」秋八月、熊襲亦反之、

侵邊境不止。


二十七年春二月十二日、武内宿祢が、東国より還って申し上げました

 「東の異民族の中に、日高見国(ひたかみのくに)があり、その国の人の男女を、

並べて椎結・文身をし、人となりがいさましくて強く、これ全てを蝦夷(えみし)と

いう。また土地は肥沃な土壌で広く、撃ち取るべき。」

   椎結・・・まげの一種。頭髪を後方に垂らし、先端を槌つちのような形にたばねたもの。

   文身・・・肌を傷つけ種々の文様を残す習俗

秋八月、熊襲はまた背き、国境を侵すことを止めませんでした。



冬十月丁酉朔己酉、遣日本武尊令撃熊襲、時年十六。於是日本武尊曰「吾、得善射者欲與行。

其何處有善射者焉。」或者啓之曰「美濃國有善射者、曰弟彦公。」於是日本武尊、

遣葛城人宮戸彦、喚弟彦公。故、弟彦公、便率石占横立及尾張田子之稻置・乳近之稻置而來、

則從日本武尊而行之。


冬十月十三日、日本武尊(やまとたけるのみこと)を遣はし熊襲を撃つように命じ、

時に年は十六歳でした。

そこで日本武尊が言いました

 「吾、うまく射れる者を得て行きたい。それどこかにうまく射れる者が

いるか。」

ある者が申し上げました

 「美濃國にうまく射れる者がいて、弟彦公(おとひこのきみ)という。」

そこで日本武尊が、葛城(かつらき)の人の宮戸彦(みやとひこ)を遣わし、弟彦公を

呼び寄せました。

故に、弟彦公は、ついで石占横立(いしうらのよこたち)及び尾張(をはり)の田子(たご)の

稲置(いなき)・乳近(ちぢか)の稲置を率いて来て、そして日本武尊に従い

行きました。



十二月、到於熊襲國。因以、伺其消息及地形之嶮易。時、熊襲有魁帥者、名取石鹿文、

亦曰川上梟帥、悉集親族而欲宴。於是日本武尊、解髮作童女姿、以密伺川上梟帥之宴時、

仍佩劒裏、入於川上梟帥之宴室、居女人之中。川上梟帥、感其童女之容姿、則携手同席、

舉坏令飲而戲弄。于時也更深、人闌、川上梟帥且被酒。於是日本武尊、抽中之劒、

刺川上梟帥之胸。


十二月、熊襲国(くまそのくに)に到りました。

そして、そのありさま及び地形の険阻と平坦を探りました。

時に、熊襲に魁帥(たける)がいて、名を取石鹿文(とりしかや)、また

川上梟帥(かはかみのたける)といい、悉く親族を集めて宴を欲しました。

ここで日本武尊は、髪を解いて少女の姿を作り、よって密かに川上梟帥の

宴の時に伺い、剣を袖の裏に身につけ、川上梟帥の宴の室に入り、

女の人の中に居ました。

川上梟帥は、その女の人の容姿に心が動き、手をつなぎ同席し、盃を挙げて

飲ませて戯れ弄びました。

この時更に夜が更けて、人はたけなわとなり、川上梟帥はまた

酒をくらいました。

ここで日本武尊は、袖の中の剣を抜き出し、川上梟帥の胸を刺しました。



未及之死、川上梟帥叩頭曰「且待之、吾有所言。」時日本武尊、留劒待之、川上梟帥啓之曰

「汝尊誰人也。」對曰「吾是大足彦天皇之子也、名曰本童男也。」川上梟帥亦啓之曰

「吾是國中之強力者也、是以、當時諸人、不勝我之威力而無不從者。吾、多遇武力矣、

未有若皇子者。是以、賤賊陋口以奉尊號、若聽乎。」曰「聽之。」即啓曰「自今以後、

號皇子應稱日本武皇子。」言訖乃通胸而殺之。故至于今、稱曰日本武尊、是其縁也。然後、

遣弟彦等、悉斬其黨類、無餘。既而、從海路還倭、到吉備、以渡穴海。其處有惡~、則殺之。

亦比至難波、殺柏濟之惡~。濟、此云和多利。


未だに死に及ばず、川上梟帥が叩頭して言いました

   叩頭・・・頭を地にすりつけておじぎをすること。また、頭をさげてかしこまること

 「しばらく待て、吾はいう事がある。」

時に日本武尊は、剣を留めて待ち、川上梟帥が申し上げました

 「汝は誰だ。」

答えて言いました

 「吾はこれ大足彦天皇(おほたらしひこのすめらみこと)の子で、名を日本童男(やまとをぐな)

という。」

川上梟帥がまた申し上げました

 「吾はこの国の中力が強い者で、ここにおいて、その時の人々は、

我の威力に勝てずに従わない者は無い。吾、多くの武勇者に遭っただろう、

未だ皇子に匹敵する者がいない。これをもって、卑しい血族は品が無い口で

尊號を奉り、もしや耳に入れるのか。」

   尊號・・・尊んでいう称号。特に、天皇・上皇・皇后・皇太后などの称号。

言いました

 「聞き入れる。」

すぐに申し上げました

 「今より以後、皇子を名付けることを承知して日本武皇子と呼ぶ。」

言い終えて胸を突き抜けて殺しました。

故に今に至り、称えて日本武尊といい、これはその縁です。

しかる後、弟彦(おとひこ)らを遣わし、悉くその徒党を斬り、残った者は

ありませんでした。

既に、海路より倭に還り、吉備に到り、穴海(あなのうみ)を渡りました。

   穴海・・・現在の神辺平野の地域をさしたと思われる古代の地名

その所に惡~がいて、そしてこれを殺しました。

またこのころ難波(なには)に至り、柏済(かしはのわたり)の惡~を殺します。

済、これを和多利(わたり)といいます。



廿八年春二月乙丑朔、日本武尊奏平熊襲之状曰「臣頼天皇之~靈、以兵一舉、

頓誅熊襲之魁帥者、悉平其國。是以、西洲既謐、百姓無事。唯、吉備穴濟~及難波柏濟~、

皆有害心、以放毒氣、令苦路人、並爲禍害之藪。故、悉殺其惡~、並開水陸之徑。」天皇於是、

美日本武之功而異愛。


二十八年春二月一日、日本武尊は熊襲を平定した状況を申し上げました

 「人民は天皇の~靈に頼り、兵を一気に、熊襲の頭を即座に滅ぼし、

悉くその国を平定した。これをもって、西洲(にしのくに)は既に安らかで、百姓は

つつがない。ただ、吉備穴済神(きびのあなのわたりのかみ)及び

難波柏済神(なにはのかしはのわたりのかみ)は、皆害する心があり、毒気を放ち、

道を往来する人を苦しめさせ、並びに災いの集まるところである。故に、

悉くその惡~を殺し、並びに水陸の経路を開いた。」

天皇はここに、日本武(やまとたける)の手柄をたたえて異にして慈しみました。



年夏六月、東夷多叛、邊境騷動。秋七月癸未朔戊戌、天皇詔群卿曰「今東國不安、暴~多起、

亦蝦夷悉叛、屡略人民。遣誰人以平其亂。」群臣皆不知誰遣也。日本武尊奏言「臣則先勞西征、

是役必大碓皇子之事矣。」時大碓皇子愕然之、逃隱草中。則遣使者召來、爰天皇責曰

「汝不欲矣、豈強遣耶。何未對賊、以豫懼甚焉。」因此、遂封美濃、仍如封地、

是身毛津君・守君、凡二族之始祖也。


四十年夏六月、東の異民族の多くが叛き、辺境は秩序が乱れていました。

秋七月十六日、天皇が群卿に詔で言いました

 「今東國が不安定で、暴神(あらぶるかみ)が多く起き、また蝦夷が悉く叛き、

たびたび人民を奪い取っている。

   蝦夷・・・古代、北陸・関東北部から北海道にかけて居住した人々

誰を遣わしその乱れを平定させるか。」

群臣はみな誰を遣わすかが分かりませんでした。

日本武尊が申し上げました

 「自分はまず西の方の征伐に行き疲れており、このつとめは間違いなく

大碓皇子(おほうすのみこ)のことだ。」

ときに大碓皇子は非常に驚き、草の中に逃げ隠れました。

そして使者を遣わし召き来て、ここにおいて天皇は責めて言いました

 「汝が望んでおらず、なぜ強く遣わすだろうか。いかに未だに賊に

向かわないのに、あらかじめ甚だしく怖気るのか。」

これにより、遂に美濃に閉じ込め、すなわち封じた地におもむき、これは

身毛津君(むげつのきみ)・守君(もりのきみ)、みな二族の始祖です。



於是日本武尊、雄誥之曰「熊襲既平、未經幾年、今更東夷叛之。何日逮于大平矣。臣雖勞之、

頓平其亂。」則天皇持斧鉞、以授日本武尊曰「朕聞、其東夷也、識性暴強、凌犯爲宗、村之無長、

邑之勿首、各貪封堺、並相盜略。亦山有邪~、郊有姦鬼、遮衢塞?、多令苦人。其東夷之中、

蝦夷是尤強焉、男女交居、父子無別、冬則宿穴、夏則住樔、衣毛飲血、昆弟相疑、登山如飛禽、

行草如走獸。承恩則忘、見怨必報、是以、箭藏頭髻、刀佩衣中。或聚黨類、而犯邊堺、

或伺農桑、以略人民。撃則隱草、追則入山、故往古以來、未染王化。今朕察汝爲人也、

身體長大、容姿端正、力能扛鼎、猛如雷電、所向無前、所攻必勝。即知之、形則我子、

實則~人。寔是、天愍朕不叡・且國不平、令經綸天業、不絶宗廟乎。亦是天下則汝天下也、

是位則汝位也。願深謀遠慮、探姦伺變、示之以威、懷之以コ、不煩兵甲、自令臣隸。

即巧言而調暴~、振武以攘姦鬼。」


ここにおいて日本武尊は、雄たけびを上げて言いました

 「熊襲は既に平定し、未だに幾年を経ずに、今さら東夷が逆らう。いつか

大平におよぶだろう。私がたとえ疲れてると言えども、すぐにその乱を

平定する。」

そして天皇はまさかりを持ち、日本武尊に授けて言いました

 「朕は聞く、その東夷は、識性が強暴で、侮って他人の領分をおかすことを

大本とし、村に長は無く、邑に頭は無く、各々領土のさかいをむやみに

ほしがり、並びにお互い盗みあう。また山には邪~がいて、都の外には

悪賢い鬼がいて、広い四つ辻を阻んでまっすぐの道を塞ぎ、多くが人を

苦しめさせる。その東夷の中、蝦夷はこれ最も強くして、男女が交わり居て、

父子が別れる事は無く、冬は穴に寝泊まりし、夏はやぐらに住み、毛を衣に

血を飲み、兄弟は互いに疑い、飛ぶ鳥のように山を登り、走る獣のように

草を行く。恩を受けても則ち忘れ、怨みを見ると必ず報復し、これをもって、

矢を上へあげて束ねた髪に隠し、刀を衣の中に帯びている。あるいは

徒党を集め、国ざかいを犯し、或いは生産物をさぐり、そして人民から

奪略する。撃つと草に隠れ、追うと山に入り、故に大昔以来、未だ王化に

染まらない。今朕は人のために汝を推し量ると、身体が高く大きく、容姿が

端正で、力が極めて強く、雷電のように猛々しく、向かう所に敵は無く、

攻める所は必ず勝つ。則ちこれを知り、形は吾子で、真実は~人だ。

まことにこれ、天は朕の聡明の無さ・且つ国の不平を憐れんで、天皇の政で

国家の秩序を整えさせ、先祖に対する祭祀を行う廟を絶やすな。

またこの天下は則ち汝の天下で、この位は則ち汝の位だ。願わくば

深く考えを巡らし後々の遠い先のことまで見通した周到綿密な計画を立て、

よこしまを探して変化をさぐり、畏れによりこれを示し、徳によりこれを心に

思いを抱き、戦力に悩まず、自ら家来に命じた。則ち言葉を巧みにして

暴~を調べ、武威を示して邪悪な鬼を追い払え。」



於是、日本武尊乃受斧鉞、以再拜奏之曰「嘗西征之年、頼皇靈之威、提三尺劒、撃熊襲國、

未經浹辰、賊首伏罪。今亦頼~祗之靈借天皇之威、往臨其境示以コ教、猶有不服即舉兵撃。」

仍重再拜之。天皇、則命吉備武?與大伴武日連、令從日本武尊。亦以七掬脛爲膳夫。


ここにおいて、日本武尊がすぐにまさかりを受け、再拝(をろがみ)をして

申し上げました

   再拝・・・二度繰り返して礼拝すること

 「かつて西を征伐した年、皇靈の威厳に頼り、三尺劒(みさかのつるぎ)を

手に提げて持ち、熊襲國を撃ち、いまだ浹辰を経ずに、賊の頭を刑に

服させた。

   浹辰・・・一二日間。 短時日の間の意にも用いる

今また~祗の靈を頼り皇靈の威厳を借り、行ってその境を臨み徳を示して

教え、なお不服もないようで兵を挙げて撃つ。」

なお重ねて再拝しました。天皇は、そして吉備武彦(きびのたけひこ)と

大伴武日連(おほとものたけひのむらじ)に命じて、日本武尊に従うよう命じました。

また七掬脛(ななつかはぎ)を膳夫としました。

   膳夫・・・ 料理を扱う人。料理人。



冬十月壬子朔癸丑、日本武尊發路之。戊午、抂道拜伊勢~宮、仍辭于倭姫命曰

「今被天皇之命而東征將誅諸叛者、故辭之。」於是、倭姫命取草薙劒、授日本武尊曰「愼之。

莫怠也。」是歳、日本武尊初至駿河、其處賊陽從之欺曰「是野也、糜鹿甚多、氣如朝霧、

足如茂林。臨而應狩。」日本武尊信其言、入野中而覓獸。賊有殺王之情王謂日本武尊也、

放火燒其野。王、知被欺則以燧出火之、向燒而得免。一云、王所佩劒雲、自抽之、

薙攘王之傍草。因是得免、故號其劒曰草薙也。雲、此云茂羅玖毛。王曰「殆被欺。」

則悉焚其賊衆而滅之、故號其處曰燒津。


冬十月二日、日本武尊は路を発ちました。

七日、道をまげて伊勢~宮を拝み、そして倭媛命(やまとひめのみこと)にことわって

言いました

 「今天皇の命をうけて東へ行き将に諸々の謀叛者を殺そうとし、故にこれを

辞任する。」

ここにおいて、倭媛命は草薙劒を取り、日本武尊に授けて言いました

 「慎め。怠るなかれ。」

この年、日本武尊は初めに駿河に至り、その所の賊に偽り従って騙して

言いました

 「こののは野は、大鹿と鹿が甚だ多く、氣は朝霧のようで、足は

茂林のようだ。臨んで鷹を狩る。」

日本武尊はその言葉を信じて、野の中に入って獣を求めました。

賊は王を殺そうとする気持ちがあり(王は日本武尊と言います)、火を放ち

その野を焼きました。

王は、騙されたと知り火打石で火を出し、向かい焼いて難を逃れました。

ある伝えは、王の身に付けた叢雲(むらくも)を、自ら抜き出し、王の傍らの草を

薙ぎ払いました。

よってここに難を逃れ、故にその剣を名付けて草薙(くさなぎ)と言います。

叢雲、これを茂羅玖毛(むらくも)と言います。

王が言いました

 「ほとほと騙された。」

そして悉くその賊徒を焼いて滅ぼし、故にその処を名付けて焼津(やきつ)

と言います。



亦進相摸、欲往上總、望海高言曰「是小海耳、可立跳渡。」乃至于海中、暴風忽起、

王船漂蕩而不可渡。時、有從王之妾曰弟橘媛、穗積氏忍山宿禰之女也、啓王曰「今風起浪泌、

王船欲沒、是必海~心也。願賤妾之身、贖王之命而入海。」言訖乃披瀾入之。暴風即止、

船得著岸。故時人號其海、曰馳水也。


また相摸(さがみ)に進み、上総(かみつふさ)に行きたく、海を望み高言をいいました

   高言・・・偉そうに大きなことを言うこと。また、その言葉

 「これは小さい海の耳で、立跳で渡れる。」

すなわち海の中に至り、暴風が忽ち起きて、王の船は漂い

渡れませんでした。

時に、王に従う妾があり弟橘媛(おとたちばなひめ)といい、

穂積氏忍山宿祢(ほづみのうじのおしやまのすくね)の娘で、王に申し上げました

 「今風が起きて波がにじみ出て、王の船を沈めたく、これは間違いなく

海神(わたつみ)の心だ。願わくば賤しい我の身を、王の命の埋め合わせで

海に入る。」

言葉を終えて大波を開いて入りました。

暴風がすぐに止み、船は岸につけました。

故に時の人はその海を名付けて、馳水(はしりみづ)と言いました。



爰日本武尊、則從上總轉、入陸奧國。時、大鏡懸於王船、從海路廻於葦浦、横渡玉浦、

至蝦夷境。蝦夷賊首嶋津~・國津~等、屯於竹水門而欲距、然遙視王船、

豫怖其威勢而心裏知之不可勝、悉捨弓矢、望拜之曰「仰視君容、秀於人倫、若~之乎。

欲知姓名。」王對之曰「吾是現人~之子也。」於是、蝦夷等悉慄、則裳披浪、自扶王船而着岸。

仍面縛服罪、故免其罪、因以、俘其首帥而令從身也。蝦夷既平、自日高見國還之、西南歴常陸、

至甲斐國、居于酒折宮。時舉燭而進食、是夜、以歌之問侍者曰、


ここに日本武尊は、上総(かみつふさ)より移り、陸奧国(みちのおくのくに)に入りました。

時に、大鏡を王の船に掛けて、海路に従い葦浦(あしのうら)を廻り、玉浦(たまのうら)を

横切って向こうへ渡り、蝦夷の境に至りました。

蝦夷の首領の嶋津神(しまつかみ)・国津神(くにつかみ)らが、竹水門(たかのみなと)に

寄り集まり隔たりたく、しかし遥かに王の船を視て、かねてその威勢に怖れて

心のうちに勝てないと知り、悉く弓矢を捨て、望んで拝んで言いました

 「君の姿を仰ぎ見て、人の道にすぐれて、もしや神なのか。姓(かばね)名(みな)を

知りたい。」

王が答えて言いました

 「吾はこれ現人神(あらひとがみ)の子だ。」

ここにおいて、蝦夷らは悉く慄き、裳をまくり浪にひらいて、自ら王の船を

助けて岸に着けました。

   裳・・・古代、腰から下にまとった衣服の総称

すなわち面縛して罪に服し、故にその罪を免れ、それゆえに、その首領を

生け捕り従わせました。

   面縛・・・両手を後ろ手に縛り、顔を前にさし出しさらすこと

蝦夷は既に平定し、日高見(ひだかみ)の国より還り、西南に常陸(ひたち)をまわり、

甲斐国(かびのくに)に至り、酒折宮(さかをりのみや)に滞在しました。

時に灯火を挙げて食を進め、この夜、歌をもっておそばつきに問いました



珥比麼利 菟玖波塢須擬 異玖用伽禰菟流


珥比麼利(にひばり) 菟玖波塢須擬(つくはをすぎて) 

異玖用伽禰菟流(いくよかねつる)


《新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる》


新治と筑波を過ぎて幾夜寝ただろうか



諸侍者不能答言。時有秉燭者、續王歌之末而歌曰、


諸々のおそばつきは答えて言いませんでした。

その時に秉燭者がいて、王の歌の末につなげて歌って言いました

   秉燭・・・手に灯火を持つこと



伽餓奈倍 用珥波虚々能用 比珥波苔塢伽塢


伽餓奈倍(かがなべて) 用珥波虚々能用(よにはここのよ) 

比珥波苔塢伽塢(ひにはとをかを)


《日々並べて 夜には九夜 日には十日を》


日々を並べると 夜は九夜 日は十日です



即美秉燭人之聰而敦賞。則居是宮、以靫部賜大伴連之遠祖武日也。於是日本武尊曰

「蝦夷凶首、咸伏其辜。唯信濃國・越國、頗未從化。」則自甲斐北、轉歴武藏・上野、

西逮于碓日坂。時日本武尊、毎有顧弟橘媛之情、故登碓日嶺而東南望之三歎曰

「吾嬬者耶嬬、此云菟摩。」故因號山東諸國、曰吾嬬國也。於是、分道、遣吉備武?於越國、

令監察其地形嶮易及人民順不。


すぐに手に灯火を持つ人の賢さを讃えて手厚く誉めました。

そしてこの宮に居て、靫部を大伴連(おほとものむらじ)の遠い祖先の武日(たけひ)に

賜りました。

   靫部・・・国造(くにのみやつこ)の子弟で構成され、朝廷の警衛にあたった品部(しなべ)

ここにおいて日本武尊は言いました

 「蝦夷の悪しき頭は、悉くその重い罪に伏した。ただ信濃国(しなののくに)・

越国(こしのくに)は、すこぶる未だに従わない。」

そこで甲斐より北、武蔵(むさし)・上野(かみつけの)をまわり、西の碓日(うすひ)の坂に

およびました。

時に日本武尊が、つねに弟橘媛(おとたちばなひめ)の思いやりの願いがあり、

故に碓日嶺(うすひのみね)に登り東南を望み三度嘆いて言いました

 「わが妻よ[吾嬬者耶(あづまはや)]嬬、これを菟摩といいます。」

それゆえに山の東の諸国を名付けて、吾嬬国(あづまのくに)と言います。

ここにおいて、道を分け、吉備武彦(きびのたけひこ)を越国(こしのくに)に遣わし、

その地の有様が険しいか平らなのか及び民が従うか従わないかを

取り締まり調べさせました。



則日本武尊、進入信濃。是國也、山高谷幽、翠嶺萬重、人倚杖難升、巖嶮磴紆、長峯數千、

馬頓轡而不進。然日本武尊、披烟凌霧、遙大山。既逮于峯而飢之、食於山中。山~、令苦王、

以化白鹿、立於王前。王異之、以一箇蒜彈白鹿、則中眼而殺之。爰王忽失道、不知所出。

時白狗自來、有導王之状、隨狗而行之、得出美濃。吉備武彦、自越出而遇之。先是、

度信濃坂者、多得~氣、以臥。但從殺白鹿之後、踰是山者、嚼蒜塗人及牛馬、

自不中~氣也。


そして日本武尊は、信濃に進み入りました。

この国は、山が高く谷は奥深く、青々とした峰が数多く重なり、人が杖を

たよるも登り難く、大きな岩が険しく石坂をめぐらし、長い峰は千を数え、

馬は留まり進まない。

しかし日本武尊は、霞を開き霧をしのぎ、遥かに大山を渡りました。

既に峯に手が届き飢えて、山中で食しました。

山神は、王を苦しめるようと、白鹿に化けて、王の前に立ちました。

王はこれを怪しみ、1個のニンニクを白鹿に弾き、そして眼に当てて

殺しました。

ここに王は忽ち道をなくし、出る所が分らなくなりました。

時に白狗が自ら来て、王を導く様子があり、狗の後に従い行くと、

うまく美濃(みの)に出ました。

吉備武彦(きびのたけひこ)が、越(こし)より出て遭いました。

この先、信濃の坂を渡る者は、多くが神氣を得て、倒れ伏しました。

ただし白鹿を殺した後により、この山を越える者は、ニンニクを噛み

人及び牛馬に塗り、自ずから神氣にあたりませんでした。



日本武尊、更還於尾張、即娶尾張氏之女宮簀媛、而淹留踰月。於是、聞近江五十葺山有荒~、

即解劒置於宮簀媛家、而徒行之。至膽吹山、山~、化大蛇當道。爰日本武尊、

不知主~化蛇之謂「是大蛇必荒~之使也。既得殺主~、其使者豈足求乎。」因跨蛇猶行。

時山~之興雲零氷、峯霧谷、無復可行之路、乃捷遑不知其所跋渉。然凌霧強行、方僅得出、

猶失意如醉。因居山下之泉側、乃飲其水而醒之、故號其泉、曰居醒泉也。日本武尊於是、

始有痛身、然稍起之、還於尾張。爰不入宮簀媛之家、便移伊勢而到尾津。


日本武尊が、更に尾張に還り、すぐに尾張氏の娘の宮簀媛(みやずひめ)を娶り、

月を越えて滞在しました。

ここにおいて、近江(おうみ)の五十葺山(いふきやま)に荒~がいると聞いて、すぐに

剣を解いて宮簀媛の家に置いて、素手で行きました。

胆吹山(いぶきのやま)に至り、山~が、大蛇大蛇に化けて道にあたりました。

ここに日本武尊は、主~が蛇に化けているのを知らずに言いました

 「この大蛇は間違いなく荒~の使いだ。既に主~を殺せていたら、

その使者はどうして求めるのに足るのか。」

それで蛇を跨いで猶も行きました。

時に山~の興した雲・氷が降り、峰は霧で谷は薄暗く、また行ける路がなく、

すなわち一つ所をうろうろと廻り彷徨いその歩き回った所も

知れませんでした。

しかし霧の強行を凌いで、方向が僅かに分かり出て、猶も酔ったように

失意しました。

そして山の下の泉の側に居て、そこでその水を飲んで正気に戻り、故に

その泉を名付けて、居醒泉(ゐさめのいづみ)と言います。

日本武尊はここにおいて、始めに身体に痛みがあり、しかしわずかに起きて、

尾張に還りました。

ここに宮簀媛(みやずひめ)の家に入らず、そして伊勢に移り

尾津(をづ)に到りました。



昔日本武尊向東之歳、停尾津濱而進食。是時、解一劒置於松下、遂忘而去。今至於此、

是劒猶存、故歌曰、


昔日本武尊が東に向かった年、尾津の浜に留まって食を進めました。

この時、一つの剣を解いて松の下に置き、遂に忘れて去りました。

今ここに至り、この件が猶もあり、故に歌って言いました



烏波利珥 多陀珥霧伽幣流 比苔菟麻菟阿波例 比等菟麻菟 比苔珥阿利勢麼 

岐農岐勢摩之塢 多知波開摩之塢


烏波利珥(をはりに) 多陀珥霧伽幣流(ただにむかへる)

比苔菟麻菟阿波例(ひとつまつあはれ) 比等菟麻菟(ひとつまつ)

比苔珥阿利勢麼(ひとにありせば) 岐農岐勢摩之塢(きぬきせましを)

多知波開摩之塢(たちはけましを)


《尾張に 直に向へる 一つ松あわれ 一つ松 人に有りせば 衣着せましを

 太刀佩けましを》



逮于能褒野、而痛甚之。則以所俘蝦夷等、獻於~宮。因遣吉備武彦、奏之於天皇曰

「臣受命天朝、遠征東夷、則被~恩・頼皇威而叛者伏罪・荒~自調。是以、卷甲戈、ト悌還之。

冀曷日曷時、復命天朝。然、天命忽至、隙駟難停、是以、獨臥曠野、無誰語之。豈惜身亡、

唯愁不面。」既而崩于能褒野、時年卅。



能褒野(のぼの)に手が届き、甚だ痛みました。

そこでいけどりの蝦夷らを、~宮に献じました。

そこで吉備武彦を遣わして、天皇に申し上げました

「臣は朝廷より命令を受け、東夷(あづまえみし)を征伐しにゆき、神の恩恵を受け・

天皇の威光を頼って反逆を罪に伏せ・荒~は自ら和らげた。これをもって、

鎧を巻き矛を収めて、穏やかに還る。いつの日いつの時を乞うい願い、

天朝に報告するだろう。しかし、天のめぐり合わせが忽ち至り、月日の

過ぎ去ることが早く止めるのが難しく、これをもって、独り荒れ果てている野に

臥して、誰も語る事は無い。どうして死ぬのを惜しむのだろう、ただ不名誉を

愁えるのみ。」

すでに能褒野で崩御し、歳は三十でした。



天皇聞之、寢不安席、食不甘味、晝夜喉咽、泣悲。因以、大歎之曰「我子小碓王、

昔熊襲叛之日、未及總角、久煩征伐、既而恆在左右、補朕不及。然、東夷騷動勿使討者、

忍愛以入賊境。一日之無不顧、是以、朝夕進退、佇待還日。何禍兮、何罪兮、不意之間、

亡我子。自今以後、與誰人之、經綸鴻業耶。」即詔群卿命百寮、仍葬於伊勢國能褒野陵。


天皇はこれを聞き、寝ても休まらず、食しても味はせず、日夜むせび、

泣き悲しみました。

それで、大変嘆いて言いました

「我が子の小碓王(をうすのみこ)は、昔熊襲が叛いた日、未だに総角(あげまき)にまで

追いつかず、長い間征伐に悩み、既に常にかたわらにあり、朕を助けるのに及ばない。

   総角・・・古代の少年の髪の結い方の一つで、髪を左右に分け、両耳の上に巻いて

         輪を作るもの

しかし、東夷(あづまえみし)の騷動に討つ者もなく、我慢して愛情を表に出さずに

賊の境に入れた。ひとひもこれを顧みる事は無く、これにより、朝夕に進み

退き、佇み還る日を待った。何の禍か、何の罪か、思わない間に、たちまち

我が子を亡くした。今より後、誰かと共に、帝王の業を整え治めるのか。」

則ち多くの公卿に詔で多くの役人に命じ、そして伊勢國の能褒野の陵に

埋葬しました。



時、日本武尊化白鳥、從陵出之、指倭國而飛之。群臣等、因以、開其棺而視之、

明衣空留而屍骨無之。於是、遺使者追尋白鳥、則停於倭琴彈原、仍於其處造陵焉。

白鳥更飛至河内、留舊市邑、亦其處作陵。故、時人號是三陵、曰白鳥陵。然遂高翔上天、

徒葬衣冠、因欲録功名即定武部也。是歳也、天皇踐祚三年焉。


時に、日本武尊は白鳥に化け、陵より出て、倭国(やまとのくに)を指して

飛びました。

多くの臣下らは、それゆえ、その棺をほ開けて視ると、明らかに衣は

空しく留まり骨はありませんでした。

ここにおいて、使者を遣って白鳥を追って尋ね、そして倭の琴弾原(ことひきはら)に

停まり、そこでその所に陵を造りました。

白鳥は更に飛び河内(かふち)に至り、旧市邑(ふるいちむら)に留まり、またその所に

陵を造りました。

故に、時の人はこの三陵を名付けて、白鳥陵(しらとりのみささぎ)と言います。

しかし遂に高く天に翔び上がり、ただ衣冠を葬り、功名を記したくて

武部(たけべ)を定めました。

   衣冠・・・衣冠をつけた人。天子・皇帝に仕えている人

この年は、天皇踐祚三年です。

   踐祚・・・皇嗣が皇位を継承すること



五十一年春正月壬午朔戊子、招群卿而宴數日矣。時皇子稚足彦尊・武内宿禰、不參赴于宴庭。

天皇召之問其故、因以奏之曰「其宴樂之日、群卿百寮、必情在戲遊、不存國家。

若有狂生而伺墻閤之隙乎。故侍門下備非常。」時天皇謂之曰「灼然。灼然、此云以椰知舉。」

則異寵焉。


五十一年春正月七日、多くの公卿を招いて数日宴をしました。

時に皇子の稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)・武内宿祢(たけのうちのすくね)は、宴の庭に

参りませんでした。

天皇は問うために召しそれ故、申し上げました

 「その酒宴の日、多くの公卿と多くの役人は、間違いなく気持ちが戯れて

遊ぶことにあり、国家の事にありませんでした。もしや狂人がいて垣戸の

隙間を伺っているのか。故に門下に侍って非常に備えている。」

時に天皇が言いました

 「灼然(いやちこ)だ。(灼然、これを以椰知挙といいます)」

   灼然・・・明るく光り輝くこと、すべてが明らかになること

そして特別にかわいがりました。



秋八月己酉朔壬子、立稚足彦尊、爲皇太子。是日、命武内宿禰、爲棟梁之臣。

初日本武尊所佩草薙横刀、是今在尾張國年魚市郡熱田社也。於是、所獻~宮蝦夷等、

晝夜喧譁、出入無禮。時倭姫命曰「是蝦夷等、不可近於~宮。」則進上於朝庭、

仍令安置御諸山傍。未經幾時、悉伐~山樹、叫呼隣里而脅人民。天皇聞之、詔群卿曰

「其置~山傍之蝦夷、是本有獸心、難住中國。故、隨其情願、令班邦畿之外。」是今播磨・讚岐・

伊豫・安藝・阿波、凡五國佐伯部之祖也。


秋八月四日、稚足彦尊を立てて、皇太子としました。

この日、武内宿禰を命じ、棟梁の臣としました。

初めに日本武尊が草薙横刀(くさなぎのたち)を腰におびて、これ今尾張国(おはりのくに)の

年魚市郡(あゆちのこほり)の熱田社(あつたのやしろ)にいました。

ここにおいて、~宮にたてまつる蝦夷等は、昼夜に慌しく騒々しく、出入りに

無礼でした。

時に倭姫命が言いました

 「この蝦夷等は、神宮に近づけるな。」

そして朝庭に進め上げて、御諸山(みもろやま)の傍に安置させました。

未だ幾時を経ずに、悉く神山(かむやま)の樹を伐り、隣の里に 大声で叫び呼び

人民を脅しました。

天皇はこれを聞き、多くの公卿に詔で言いました

 「その~山の傍に置いた蝦夷は、これ元は獸心があり、中国(なかつくに)に

住み難い。

   獸心・・・けもののように、道理をわきまえない残忍な心

故に、その心の願うまにまに、邦畿の外にかえせ。」

   邦畿・・・ 都に近い天子直轄の地。王城付近の地

これ今の播磨(はりま)・讃岐(さぬき)・伊予(いよ)・安藝(あき)・阿波(あは)、すべて五国の

佐伯部(さへきべ)の祖先です。



初日本武尊、娶兩道入姫皇女爲妃、生稻依別王、次足仲彦天皇、次布忍入姫命、次稚武王、

其兄稻依別王、是犬上君・武部君、凡二族之始祖也。又妃吉備武彦之女吉備穴戸武媛、

生武卵王與十城別王、其兄武卵王是讚岐綾君之始祖也、弟十城別王是伊豫別君之始祖也。

次妃穗積氏忍山宿禰之女弟橘媛、生稚武彦王。


初めに日本武尊が、両道入姫皇女(ふたちいりひめのみこ)を娶り妃とし、

稲依別王(いなよりわけのみこ)を生み、次に足仲彦天皇(たらしなかつひこすめらみこと)、次に

布忍入姫命(ぬのおしいりひめ)、次に稚武王(わかたけるのみこ)、その兄の

稻依別王(いなよりわけのみこと)は、これ犬上君(いぬかみのきみ)、・武部君(たけるべのきみ)、

すべて二族の始祖です。

また吉備武彦(きびのたけひこ)の娘の吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ)を妃とし、

武卵王(たけかひこのみこ)と十城別王(とをきわけのみこ)を生み、その兄の武卵王は

これ讃岐綾君(さぬきのあやのきみ)の始祖で、弟の十城別王は

これ伊予別君(いよわけのきみ)の始祖です。

次に穂積氏(ほづみのうぢ)の忍山宿祢(おしやまのすくね)の娘の弟橘媛(おとたちばなひめ)を

妃とし、稚武彦王(わかたけひこのみこ)を生みました。



五十二年夏五月甲辰朔丁未、皇后播磨太郎姫薨。秋七月癸卯朔己酉、立八坂入媛命爲皇后。


五十二年夏五月四日、皇后の播磨太郎姫(はりまのおほいらつめ)が亡くなりました。

秋七月七日、八坂入媛命(やさかのいりびめのみこと)立てて皇后としました。



五十三年秋八月丁卯朔、天皇詔群卿曰「朕顧愛子、何日止乎。冀欲巡狩小碓王所平之國。」

是月、乘輿幸伊勢、轉入東海。冬十月、至上總國、從海路渡淡水門。是時、聞覺賀鳥之聲、

欲見其鳥形、尋而出海中、仍得白蛤。於是、膳臣遠祖名磐鹿六鴈、以蒲爲手繦、

白蛤爲膾而進之。故、美六鴈臣之功而賜膳大伴部。十二月、從東國還之、居伊勢也、是謂綺宮。


五十三年秋八月一日、天皇は詔で多くの公卿に言いました

 「朕が愛する子を思いめぐらす事が、いつか止んでしまった。願わくば

小碓王が平定した国を巡狩したい。」

この月、輿に乗り伊勢に行き、東海(うみつみち)に進み入りました。

冬十月、上総国(かずさのくに)に至り、海路より淡(あは)の水門を渡りました。

この時、覚賀鳥(かくかとり)の声を聞いて、その鳥の姿を見たく、尋ねて

海中に出て、そこで白蛤(うむぎのかひ)を得ました。

ここにおいて、膳臣(かしはでのおみ)の遠い祖先の名が磐鹿六鴈(いはかむつかり)は、

蒲をたすきとし、白蛤をなますとして進めました。

故に、六鴈臣(むつかりのおみ)の功を誉めて、膳大伴部を賜りました。

十二月、東の國より還り、伊勢に居て、これを綺宮(かにはたのみや)といいます。



五十四年秋九月辛卯朔己酉、自伊勢還、於倭居纏向宮。


五十四年秋九月十九日、伊勢より還り、倭の纏向宮(まきむくのみや)に居ました。



五十五年春二月戊子朔壬辰、以彦狹嶋王、拜東山道十五國都督、是豐城命之孫也。然、

到春日穴咋邑、臥病而薨之。是時、東國百姓、悲其王不至、竊盜王尸、葬於上野國。


五十五年春二月五日、彦狭嶋王(ひこさしまのみこ)に、東山道(やまのみち)の十五国の

都督(おほみこともち)を拝ませ、これは豊城命(とよきのみこと)の孫です。

しかし、春日(かすか)の穴咋邑(あなくひむら)に到り、病に伏して亡くなりました。

この時、東國の庶民は、その王が至らないことを悲しみ、王の亡骸を

密かに盗み、上野国(かみつけのくに)に葬りました。



五十六年秋八月、詔御諸別王曰「汝父彦狹嶋王、不得向任所而早薨。故、汝專領東國。」是以、

御諸別王、承天皇命且欲成父業、則行治之、早得善政。時、蝦夷騷動。即舉兵而撃焉、

時蝦夷首帥足振邊・大羽振邊・遠津闇男邊等、叩頭而來之、頓首受罪、盡獻其地。因以、

免降者而誅不服、是以東久之無事焉。由是、其子孫、於今有東國。


五十六年秋八月、御諸別王(みもろわけのみこ)に詔で言いました

 「汝の父の彦狭嶋王(ひこさしまのみこ)は、任せる所に向かえずに早く

亡くなりました。故に、汝はもっぱら東國を治めろ。」

これにより、御諸別王は、天皇の命を承り且つ父の業を成したく、そして

これを行い治めて、すみやかに正しくよい政治を手に入れました。

時に、蝦夷が騒ぎ立てました。すぐに兵を挙げて撃ち、蝦夷の首領の

足振辺(あしふりべ)・大羽振辺(おほはふりべ)・遠津闇男辺(とほつくらをべ)らが、叩頭して来て、

頓首して罪を受け、あるもの全てその地を献じました。

   叩頭・・・《頭で地面をたたく意から》頭を地につけておじぎをすること

   頓首・・・頭を地面にすりつけるように拝礼すること

それゆえ、降参した者は免れ服従しがたい者を殺し、これをもち東は

久しくつつがなし。これにより、その子孫は、今も東國にいます。



五十七年秋九月、造坂手池、即竹蒔其堤上。冬十月、令諸國興田部屯倉。


五十七年秋九月、坂手池(つくてのいけ)を造り、すぐに竹をその土手の上に

植えました。

冬十月、諸国に田部(たべ)の屯倉(みやけ)を興させました。



五十八年春二月辛丑朔辛亥、幸近江國、居志賀三歳、是謂高穴穗宮。


五十八年春二月十一日、近江国(ちかつあふみのくに)に行き、志賀に三年居て、

これを高穴穂宮(たかあなほのみや)と言います。



六十年冬十一月乙酉朔辛卯、天皇崩於高穴穗宮、時年一百六歳。


六十年冬十一月七日、天皇が高穴穂宮で崩御され、歳は百六歳でした。